寂しいことですが陪餐者数が減っています。「礼拝へおいで、礼拝へ行こう」と誘う必要があります。ですが、その声かけの原動力は必要ではなく喜びです。礼拝の喜びを自ら知って初めて、自信をもって「礼拝へおいで」と言えるのだと思います。
社会人として働いていた頃、日曜の朝はとても疲れていました。お昼まで寝ていたい。体を引きずるように礼拝へ通っていました。しかし聖餐式を終え、教会から出る頃にはいつも心に力を得ていました。毎週不思議でした。喜びのない自分が喜びに満たされて帰って来るのです。
みなさんは聖餐式のどこに喜びを感じるでしょうか。礼拝前にこの世から神に選ばれ集められた共同体に加わるとき。声を合わせて聖歌を歌うなかで自分より大きい喜びを感じるとき。古代から受け継いだキリエや大栄光をチャントに合わせて歌い上げるとき。自分一人の生活ではなかなか読まない聖書を聞くとき。説教を通して神さまのメッセージを聞くとき(退屈で居眠りしなければ、笑)。自分の罪を告白して教会の権威により赦しの宣言を受けるとき。代祷で世界と兄妹と自分のために祈るとき。献金にのせて自分自身を神さまにお献げするとき。そして何より感謝と賛美の祈りによって聖霊がパンと葡萄酒に降ってイエスさまの体と血に変わるとき。そしてそれを受けて自分もまた変わるとき。最後に、主とともにこの世の生活へと帰っていく派遣。
聖餐式は「み使いとみ使いの頭および天の全会衆と共に」喜び歌う祝いです。だから「感謝と賛美は私たちの務めです」。なのになぜ礼拝が、しかも「参加型体験」である聖餐が「同じことの繰り返しの退屈な儀式」に思えるのでしょうか。
それはやはり「理解」です。どんなに面白い小説に心を奪われている人も、外から一見しただけではただの「本を読んでる人」です。内容を理解して初めてその喜びを共有することができます。
聖餐式の喜びの核心は「キリストを受け、神の命に参加すること」です。神が人となったのは、人が神となるため。神は私たちの罪と死と病を受け、私たちは神の赦しと命と愛を受けます。聖なる交わり、聖なる交換です。そして4世紀エルサレムの主教キュリロスが教えたように「キリストの体と血を私たちのうちに摂り入れることによって、私たちはキリストを運ぶ者、神の本性に与かる者になる」(秘義講和4・3)この世で疲れた私たち人間のうちにキリストが入り、私たちのうちで生き、私たちを変え、私たちを溢れさせる。それが神性に与かること、神と交わること、神に生かされることです。
そして、ちょうどサマリアの女がイエスという泉から喜びの水を飲んだように、私たちは聖餐式で溢れる喜びの泉から飲み、「キリストを運ぶ者」となって、その喜びをこの世で表す使命に派遣されます。喜んで人を愛する奉仕と隣人愛です。その出番がどれだけ小さなものだったとしてもです。明るい人は、周りの人の心を照らすのです。
聖餐式の喜びは日常生活へと溢れます。神に与かれば与かるほど私たちはより人間らしい人間、喜びに溢れた存在になる。この世的には喜びがなくても「あなたは私の喜び」と叫んでくださる神の喜びが、聖餐式であなたを変え始め、あなたの生活の隅々にまで届きます。
礼拝の喜びに変えられ、自信を持って人を礼拝に招きましょう。
司祭ヨハネ荒木太一

