
あるカウンセラーのもとに45歳の末期がんの女性が来ました。彼女は自暴自棄になり、それまで誇りを持ってやってきた仕事やボランティア、子育てや家事をすべて辞めてしまっていました。そこでカウンセラーは彼女に二つのグラフを書くように言いました。
一つは生産性のグラフです。それは、社会や家族や自分に対してなにかを成し遂げている度合いを表します。生まれたばかりはゼロでした。そして学校で勉強や部活動をし、恋愛や旅など、いろんなことを成してききました。もちろん実際には病気や環境によって非生産的な時期もありましたが、それでも就職し、結婚して家庭を築き、子供を産み育て、ボランティアもしてきました。そうしてこれからは、引退して老いていき、体力や気力や健康、色んなものを少しずつ失っていき、生産性が低くなっていくだろう。そして最後にはまたゼロに戻って「生きているだけ」になり、ベッドに寝たままになって最期を迎えるはずだった、と想像しました。
もう一つのグラフは人間としての価値を示すグラフです。彼女は85%と書きました。これは人生のどの時点でも同じでした。
この二つのグラフから彼女は「生産性に関わらず自分は生きているだけで価値がある」こと、そして「それでも最後まで、何かできることがある」ということを悟りました。そして数ヶ月後、彼女は苦痛の中で亡くなりましたが、最後まで尊厳を保っていたそうです。
グラフでは人間の価値は85%ですが、クリスチャンの私たちにはそれは100かゼロ「あるかないか」であり、いつも100%「価値がある」ものです。
もちろんよく働き、仕事を成し遂げることは素晴らしいことです。しかしたとえ何の生産性がなくとも、誰の役に立たなくとも、それでも私たちは神さまの似姿に作られた「価(あたい)高く貴い」存在です。(イザヤ43・4)たとえベッドの上で呼吸だけして「生きているだけ」になっても、私たちはイエスさまが死んで命を与えるほどに愛しておられる大切な存在なのです。
「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エフェソ2・8)人間に価値を与える「救い」は、働きや生産性ではなく、神さまの恵みによるのです。
神さまの前ではこの絶対的な「居場所」がある、そのうえで私たちには「出番」が与えられます。神の似姿として神を世に映し出す働き、とくに祈りと愛の行いです。どれだけ年老いても人のために祈ることはできます。また最期まで復活を信じて尊厳を保って死んでいくことで、周りにいる人にイエスさまを垣間見せることもできます。
しかしたとえそのような祈りや信仰さえできなくなったとしても、根本的には「ただ生きているだけ」のその方の価値を、神さまはその全存在をかけて守っておられます。この愛を聖餐式で感じましょう。そしてそれぞれに与えられる出番で、ほんの小さなことでいい、誰も見ていないことでいい、誠実にことを成していきましょう。
(「いやな気分よ、さようなら コンパクト版」デビッド・D.バーンズ (著), David D. Burns (著), 野村 総一郎 (翻訳), 夏苅 郁子 (翻訳), 2013/7/22)