私は洗礼を受けている

マルティン・ルター
マルティン・ルター

 

2025年9月14日、大津聖マリア教会では洗礼式が行われます。志願者の方は今、聖書を読み、祈りを重ね、信仰を学び、準備をしています。そして当日、私たちが心を込めて祈るところに聖霊が働き、彼は罪と悪を退けて信仰を告白し、イエスさまと一体になります。 

 

「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それはキリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」(ローマ6・4) 

 

洗礼で私たちは主の十字架と一体になり、罪と悪と死の古い自分に死にます。悔い改めて死に、全ての罪が赦されます。そして主の復活と一体になり、信仰と希望と愛を通して父が与える新しい命を今、この世で既に生き始めます。これが私たちクリスチャンです。洗礼を受けた者です。イエスさまと一体になり、共に死に共に生きる者です。  

 

私たちは人生の旅路にあって自分が誰か分からなくなる時があります。挫折したり、自信が無くなったり、大切な人を失ったり、病気になったり、喜びを感じられなくなったり、老いや死を受け入れられなかったり。そんなときには「自分は一体誰なのか」と疑います。自分の土台が揺らぎます。 

私たちクリスチャンにとって、そんな時に握りしめる答えが洗礼です。「私は洗礼を受けている」と。

 

あなたが洗礼を受けた何年何月何日の聖餐式で、確かに神はあなたの歴史に介入して働き、あなたをイエスさまと結びつけられました。古い自分に死に、新しい復活の命に生かし始められました。この歴史的事実は教籍簿にも、神さまの心にも、そして私たちの魂の底にも刻まれたまま、決して消えることはありません。洗礼とは不確かな人生を歩いていくための確かな確証なのです。 

 

だから不安や心配や疑いなど、魂の敵に襲われるとき、何度も何度も繰り返して自分に言いましょう。「私は洗礼を受けている。何年何月何日に洗礼を受けている。私はイエスさまと一体になっている。神さまに愛される神の子となっている」。

 

ローマ教皇を敵に回して宗教改革を起こしたマルチン・ルターは、疑いの悪魔に襲われるたびにこう呟いたそうです。「私は洗礼を受けている。私はクリスチャンだ。」

 

信仰は感情を超えます。もちろん和やかで温かい感情は恵みです。しかし信仰は感情が伴わなくとも力を発揮します。洗礼という救いの確証は、やわな感情よりもずっと強いのです。たとえ朝起きて死にたいくらいに物悲しくても、たとえ人間関係に行き詰まって辛くても、たとえ死の間際に苦しみ悶えても、この救いの事実は変わりません。どんな感情や気持ちにも左右されないイエスさまと一体である証拠、それが洗礼です。 

 

だから洗礼を信じて生きていくことは大きな祝福です。洗礼を受けた年月日の一点から、浮き沈みのある私たちの人生の全ての時を神は祝福していかれるのです。ちょうど結婚式の日が、結婚生活のすべての日々を祝福していくように。

9月14日にむけてお祈りください。私たちの小さな教会に、新しい信徒が一人生まれます。当日ぜひ祈りに来て、救いの奇跡の証人となり、一人の神の子を神の家族に迎え入れましょう。

 

そして同時に、自分自身に与えられた洗礼の恵みを再認識し、共に喜び祝いましょう。