徳の旅路

人生を省みると、このみ言葉を思います。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10・31) 

 

神学校を卒業してすぐ、私は幸せでした。保育園を任され、自殺予防の活動をし、通訳として働き、同期で最初に執事按手を受け、結婚もしました。元気に働き充実していました。人生が右肩上がりでした。

 

しかしそれは長く続かず、病気になり、人並みに働けなくなりました。それからは悔しい思いをたくさんしました。もっと体力があれば…なぜ自分だけ…。人生が右肩下がりに感じました。自分の人生はどこから来てどこへ向かうんだろうか。

 

古代エジプトの教父オリゲネス(185-253)は教えました。「人生は魂の旅だ。出エジプトで、民が荒れ野で宿営を重ねつつ、約束の地へと歩んだ旅だ」と。困難な出来事が起こる宿営は、人生の様々な試練のことで、無知のエジプトから脱出し、一つの宿営を通過する度に「徳」を一つずつ身につけ、そして最後には神の知識に至る、と。

 

徳とは「徳を積む」という「善行」の意味ではなく「人間の善い性質」のことです。新約聖書では「信仰、希望、愛」。旧約聖書やギリシャ哲学では「知恵、節制、賢明、正義、勇気」など様々な徳が言われます。(一コリ13:13、知恵8・7) オリゲネスが特に強調したのは謙虚さと愛です。これがキリストに倣い、神を知る道だからです。そして励まします。

 

「われわれは旅路を歩もう。われわれがこの世に来たのは『徳から徳へ』と通過して行くためである。」(民数記講和第27・7)(詩84・8)

 

つまり人生の目的はこの世での成功や、達成した働きや、健康ですらなく、荒れ野の宿営のような試練を通して徳を身につけていくことだ。人生は神を目指して徳から徳へと旅する旅路だと。これは「修徳修行」の霊性と言われます。

 

病気の体験を通して私は謙虚さを知りました。自分の体の弱さを知り、復活の主に助けを乞い、少しの癒しを感謝することを知りました。元気なままでは分からなかったことです。また、病気に苦しむ人の気持ちを大切にし、少しでも分かりたい、しんどさを分かち合う場所を作りたい、と願うようになりました。

 

私は人徳のある賢人とは程遠い人間です。しかし人と比べるのではなく、ただ神と自分との関係の中で、過去の自分自身と比べれば、私の魂は旅をしているとを感じます。あの頃は分からなかった愛を、希望を、謙虚さを今は分かる。たとえ世間的には右肩下がりで衰える一方でも、魂にとっては一本の旅路がしっかりと通っている。神さまが通してくださっています。苦しみごとに、一つずつ善い徳が増し加えられ、自分なりに徳から徳へと通過していき、善くなり、いずれは神さまに辿りつける。そう思うとホッとします。人生の旅に意味が見えてきます。

 

もちろんこの旅は自力ではなく、イエスさまがその力で導いてくださる旅です。神が働く。だから信じましょう。私たち人間は悪から善へと変わっていく可能性があるのだと。

 

オリゲネスは素晴らしいイメージで旅路の終着点を描きます。それは神さまの「波しぶき」です。

 

「神の川に辿り着くよう全行程を進み、走り抜いたので、われわれは知恵の流れの近くにいる者となり、神の知識の波しぶきを浴びている。」(民数記講話第27・12)