
主の復活おめでとうございます。
苦しみ、悲しみ、不安が多いこの世にあって「死が最後ではない」「復活の命は既に働いている」と信じることは生きる力です。イエスさまの死から命への旅を辿ってきたように、どうか私たちも絶望ではなく希望をもって、この世を生き、死に、復活していくことができますように。
先日、息子が6年半通ったフリースクールで「卒業スライドショー」がありました。スタッフさんが膨大な写真の中から笑顔や真顔や寝顔など、いろんな姿を選んで年齢順にまとめ、思い出を愛おしむようなJポップをつけてくれたものでした。可愛い8歳の頃から大人振る15歳になるまで、1時間もありました。不登校の日々からやっと居場所を見つけた喜び、大きいお兄ちゃんへの憧れ、川や野山で遊び回った充実感、500キロの自転車旅行への挑戦、そうして失った自信を回復していった日々・・・息子の少年時代の一瞬一瞬が全体として一つにまとめられ、スタッフさんの眼差しのもとで愛され、祝福されていました。
それを見て「ああ、この子はここで本当に幸せな少年の日々を過ごしたんだ」と実感し、涙したのでした。
人生全体が一つとなって見つめられることは大きな祝福です。すべての瞬間が受け容れられ、赦され、救われることです。
復活とは、このスライドショーのようなものです。
4世紀トルコの主教ニュッサのグレゴリウスは、復活の体は何歳の体なのかという問いに答えてこう教えました。「復活が肉体を再び生かすとき、人はその人全体となる。乳児、幼児、子供、青年、夫、父、老人、そしてその間のすべての瞬間は失われる事はない。」(魂と復活について第10章「復活の教理」)
不思議な肉体です。死んだ年齢の姿で復活するのではありません。すべての年齢、その一瞬一瞬が新しく生かされて一つにまとめられた体です。それが復活の命という音楽に飾られて祝福されるのです。80歳の自分でありつつ、8歳の自分でありつつ、その間のすべての自分として復活します。そうして苦しく辛い瞬間をも含めてすべてが神さまに見つめられ、愛され、まとめられ、祝福されるのです。この意味で復活とは「神ご自身の中にいる」ことです。(同右)
復活のイエスさまに出会った弟子たちはそのような復活体験をしたのだと思います。ペトロは復活の主に出会ったとき、三度裏切った瞬間も含めてすべての瞬間が赦され、愛され、一つにまとめられ、神の中で祝福されました。そこから「私の人生はすべて神の中にあった、そしてこれからもずっと、死を超えて神の中にある」という確信が生まれ、ローマで殺されるまで、復活の主を伝える宣教に出て行けたのです。
神さまは私たちの人生のすべての瞬間を見つめておられます。写真を撮っておられます。そして復活のとき、人生をひとつのスライドショーにして祝福し、それを見せてくださいます。一瞬たりとも無駄にされません。すべてを赦し、すべてを愛し、すべてを肯定してくださいます。
死と闇の力が人生を寸断して無意味な時間の連続にしようとするとき、復活を信じて安心しましょう。「人生のすべての瞬間は、神さまによって一つの復活の命にまとめられ、赦され、祝福される。死も含めて、失われる瞬間なんて一つもない。」