日が長くなってきました。イースターが待ち遠しくなってきました。
春は体調を崩しやすい季節です。体調の良し悪しによって気分が左右され、神さまへの態度が変わってしまいます。これは体調だけではなく仕事や人間関係や金銭面など、生活のどの側面でも同じことです。
調子が良くて元気で気分が良ければ、神さまは近くに感じられます。朝起きた時に窓を開ければ、朝の香りに感動し、生きているこの世界の素晴らしさを感謝します。家族にも、兄弟姉妹にも、他人にも愛と優しさが湧いてきます。
しかし調子が悪いときは、神さまは遠く冷たく感じます。朝目覚めたときから布団にくるまって「イエスさま助けてください」と祈ってしまいます。愛など湧いてこないどころか、見捨てられたようにさえ感じます。他人が羨ましくなります。
「愛する」ことを思うとき、私は自分自身をコントロールできていないことに驚き、困ります。苦しみ、不安、怖れ、絶望、羨望、欲望・・・悪い気持ちが暴走してしまいます。悪魔に誘惑され、負けてしまいます。
気分や欲望や情念に左右されずに神を愛する。これを古代のクリスチャンは「不動心、アパテイア」と呼びました。無情念、無欲情、無欲、または浄心とも訳されます。ここで「情念」とは人間らしい良い感情ではなく、人間の心を蝕む、行き過ぎた悪い気分、欲望、情動です。ですので「不動心」とは感情を持たない冷徹な人間ではなく、すべての悪い心から自由になって神を最大限に愛している人間のことです。愛が不動なのです。真の人間らしさです。
2世紀エジプトのクレメンスは祈りの目的地をこう教えました。 「情念の無い神との愛の親しさを得て・・・そのような鎮まりのうちに不動心に至る。」 (ストロマテイス 6・9・74)
ここで人はもう何にも絶望したり、不満足だったり、欲したりしません。どんな情念からも支配されません。心は神との愛の「親しさ」に満たされています。「親しさ」とは何も欠けていない、何も要求しない、ただ「今ここにいる」ことが宝物のように感じる関係です。子どもが全幅の信頼を寄せて親と見つめ合う関係、夫婦が何も言わずただ隣にいる時間、親友が互いを思いやる時のような関係です。何の不安も恐れも疑いもありません。そして神との愛の親しさが、すべての情念を「鎮め」て、心を不動にします。
私がそんな賢者になれる、とは言いません。その可能性を実現したのはイエスさまです。真の人となった神です。イエスさまはゲッセマネの園で「私の心ではなくみ心が成りますように」と委ねられました。十字架上で「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と委ねられました。父への愛を邪魔するすべての情念よりも父のみ心を選び、自分を委ね、その通りに死なれました。愛して委ねることが、情念を鎮めたのです。
そして復活のイエスさまはすべての情念から解放され、完全な自由と愛に包まれます。真の人間゛です。イエスさまの復活によって人類は完成し初めました。そして神さまは私たちを、見えない仕方で少しずつ復活のイエスさまの似姿に変えてくださいます。不動の愛の人に変えていってくださいます。なんという幸せ、なんという恵みでしょうか。
不動の愛として復活されたイエスさまが来られます。復活日聖餐式に集まりましょう。

