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神に似た者に

ある牧師先生との出会いについてです。最初は親しみが湧かなかったのですが、あるとき、先生は信徒さんをとても優しい眼差しで見ていることに気づきました。そしてまた、私に対しても優しい眼差しを向けてくれていたことにも気づきました。すると私の心のうちにも同じような優しさが湧いてきて、私は先生を深く知っていきました。そして気づけば私も同じような優しい眼差しで信徒さんを見ていました。同じ心を持つことで、自分が先生に似た者に少し変えられたのだと思います。

 

夫婦でも、友達でも、親子でも、信徒同士でも、人を知ろうとするとき、ただ単にその人についての情報をインプットするだけでは足りません。その人がどんな思いで生きているのか、その思いを知ることで初めて相手をより深く知ることができます。相手と同じ心を通してその人を「観る」のです。傾聴とはそういう行為の一つだと思います。

 

神さまを知るのも同じです。2世紀エジプトの神学者クレメンスは言いました。(少しくどい翻訳ですが)「私たちは、神に似た者とされて神を観るために、神の愛によって神と親しく交わるのです。」(ストロマテイス5 ・ 1・ 13 ・ 1 ~ 2 ) 

 

「似た者同士」は相手をよく知っています。神さまを観る、つまり神さまの心を直接的に知るためには、私たちは神さまと同じ心を持たなければなりません。同じ心で見つめ返さなければ見えないのです。その心が愛です。神さまを愛することで初めて神さまを観ます。しかし私たちは自らのうちにはそのような偉大な愛はありません。神さまに愛されて私たちのうちに愛が湧き、その与えられた愛で初めて私たちは神さまを愛し返します。そしてこの愛の親しい交わりが、私たちを少しずつ愛そのものである神さまと似た者に変えていきます。そうして私たちは神を知り、神を観るのです。

 

「神さまに似た者になる」と言うと「そんな傲慢な」と思われるかもしれませんが、人間が人間をやめて神に成り上がろうとすることではありません。それはアダムとイブの罪です。そうではなくて神さまの愛に触れることです。参加することです。その一部になることです。神さまとの愛の交わりの中で、少しずつ少しずつ生涯をかけて、神と人を愛する者になっていくことです。難しい神学の言葉では「神化」と言います。

 

そのような「親しい交わり」がイエスさまとの対話です。祈りです。朝起きた時に、布団の中でいい、イエスさまに感謝し、日中はイエスさまと共に人に優しくあろうとし、辛い時には助けを求め、嬉しい時には感謝して、イエスさまを忘れて一日過ごしても、夜寝る前にイエスさまに自分を委ねる生活です。そうしてイエスさまを愛するなかでイエスさまを親しく知り、親しく知られ、愛によって変えられ、神を観るようになります。父と子と聖霊としての愛の交わりである神さまを観るようになる、と神さまが約束されているのです。(1コリ13・12)

 

 

3月5日の灰の水曜日から教会は大斎の旅を始めます。死の冷たさから、命に燃える愛を目指す旅です。6回の主日聖餐式に集まりましょう。そこでイエスさまとの親しい愛の交わりに与かり、少しずつ少しずつ復活のイエスさまに似た者に変えられていきましょう。そしてイースターには、また実際に私たちが死んだ後に訪れる復活の朝には、イエスさまに結ばれて、愛そのものである神さまを観ることを望みましょう。