実は、祈りが分からなくなっていました。あんなに礼拝しているのに・・・。知識が邪魔するのかも知れません。神は三位一体の神だから、「父なる神に、主イエス・キリストのうちに、聖霊によって」祈るべきだと考えてしまうからかもしれません。
そもそも「あなた」と呼びかけるとき、それは父なる神なのか、子なる神なのか分からなくなり、呼びかける瞬間から頭が混乱してきます。そして相手がよく分からないままこちらの願いを一方通行で陳列して(プレゼンテーション)、ほんのお愛想程度に「イエスさまによって、アーメン」と終わってしまいます。
ですが祈りは本来、対話です(コミュニケーション)。仲の良い夫婦のように、ランチでの友人同士のように、恋人同士のように、親しく語り合い、見つめあい、分かち合うものです。双方向です。それがなくなってきたのです。これは苦しい。聖なる三位一体の神の前で、門前払いを受けている気がしてきます。
これはまずい。もう形式なんて気にしている場合ではない。祈りの生活の危機です。もう間違ったっていい、できることをしよう。そんな思いで私はこのところ、主イエスさまと対話するために、まずたくさん話しかけています。これはどれだけやっても、間違いないはずじゃないか、と。
朝、祈祷書で「朝の礼拝」をする前に、主イエスさまに自分のことをたくさん喋ります。人のために祈る前に自分のために祈ります。「主イエスさま、私はいま・・・。」 いま、不安に思うこと。今日、すべきこと。助けて欲しいこと。なりたい自分。諦めるべき自分。捨てたい暗い心と、得たい明るい心・・・。
そうしていると自然と言葉が尽きてきます。そうなれば沈黙して主イエスさまの語りかけを待ちます。祈祷書と聖書を開けて「主イエスさま、語りかけてください」と祈りつつ、その日の詩篇と聖書を読みます。瞬時に「ビビッ」となんてきません。それでも主イエスさまの心を想像します。黙想します。心に留めます。そうすると意味ある言葉が与えられることがあり、独話ではなくなり対話になります。喜びます。
夜は夜で話しかけるのですが、枕に頭を横たえるときに想像することがあります。それは野宿の旅を共にした弟子たちの横で、横たわっておられるイエスさまの姿です。ときには祈っておられるようであったり、ときには眠ろうとされているようであったり、ときにはこちらに背を向け、ときにはこちらを向いておられたりします。それでも私が「主イエスさま、私はいま・・・」と話しかけると、目をゆっくり開いて語りかけてくださる気がします。「平安があるように。」そうして私は平安のうちに眠りについていきます。
私は主イエスさまとの対話を信じるようになりました。これさえあれば、あとは主イエスさまが父と聖霊に導いてくださると。「わたしは父を愛している。世界がそれを知るために、わたしは父の命じることを行っている。」(ヨハネ14・31) イエスさまはいつも、愛する父について語りかけてこられます。だから私たちは、祈りに迷ったときは、主イエスさまだけを見つめて語り合えばよいのです。そうすれば主イエスさまはご自分が愛している父を知らせてくださいます。ご自分の愛である聖霊を吹き込んでくださいます。そして三位一体の神の交わりへと、私たちを迎え入れてくださるのです。
対話はこのひと言から始まります。「主イエスさま、私はいま・・・」

