司祭ヨハネ荒木太一
私は「生きる意味」を探し求めて成人洗礼を受けました。どこかに「これこそ生きる意味だ」という知識や体験、または悟りのようなものがあって、自分がそれを体験することが救いだと思っていました。
そんなある日、洗礼まで導いてくれた兄弟が私を捕まえて強く言ってくれました。「タイチ、俺たちの信仰は歴史的な信仰なんだ」と。当時は意味が分かりませんでしたが、今は分かります。救いとは、ちっぽけな自分の中の主観的な体験であるだけではなく、大きな世界の客観的な歴史だということです。自分が何かを体験するより前に、イエスさまによって神は世界を決定的に変えた。歴史は変わった。それが救いだと。
2世紀の主教エイレイオスはこう教えました。「神の子はあるときに受肉し人間となったが、そのときには人間の長い歴史を自らのうちに再統合した。・・・それは、私たちがアダムにおいて失った神の似姿とかたどり・・・をキリスト・イエスにおいて再び受けるためであった。」(異端反駁3・19・3)
私たちは神の歴史を生きています。神は歴史の初めに人間をご自分の似姿として、ご自分を反映させる鏡のような存在として造られました。しかし人間は神に逆らうことでその似姿を失いました。この似姿を人間が再び受けるために、神は一人の人間になり、受肉し、人間の罪の歴史を自らに引き受けられました。歴史上の十字架と復活の内に、人間と神を「再統合」されました。そして私たちは神の似姿を再び受け始め、今度は永遠の命で神を映し始めたのです。
こうして全てが新しくなる時代が始まりました。聖餐式で祈る「終わりのとき」がイエスさまによって始まったのです。この歴史の転換を祝うのが、神が人間イエスさまとなった祝い、クリスマスです。
「自分はこのままではいけない、何かを得なければ救われない」と迷うときも、または「結局何も変わらない。教会も信仰生活も退屈なままだ」と絶望するときも、この救いの歴史を知りましょう。「見えないけれど、イエスさまのうちに、歴史は確かに変わった。変わり始めている。」
この客観的な歴史を信じれば、世界は変わって見えてきます。実感はないけれど、自分も他人も神を再び反映させ始めている。世界には苦しみも悲しみも多いけれど、根本的には既に新しく創造され始めている。自分の小さな体験だけでは見えない世界がここに広がります。歴史が変わったことを知ることは自分をも、人生をも変えます。
戦争が終わったことを知らずにいる兵士は、戦い続けるか逃げ続けるしかありません。ただ終戦の事実を聞いてそれを信じること。そのことが兵士を救い、変えます。ちっぽけな自分がどれだけ戦うかではなく、神が歴史的に死に勝利した、と知ることが救いになるのです。そしてこれを知らせるのが福音宣教です。
そして祈りとは、自分で自分を救うことではなく、確かに変わった神の歴史の流れに自分を委ねて変えてもらうことです。神の愛の流れの中で、聖霊によって、神を映し出すように、自分の上に描かれた神の似姿を磨いてもらう時間です。祈りと礼拝の中で、聖霊があなたの心を磨き、輝かすのです。
神は人となり、歴史は確かに変わりました。この喜びを胸に、何も変わらないような世界と教会を、自らが変えられて愛していきましょう。
「喜べ。あなたが体験するより先に、私は世界を変え始めている。」
クリスマスの喜びがあなたと共に。
(参考、ルイ・ブイエ著「キリスト教神秘思想史」①教父と東方の霊性)

