「会いたい」と心から思う友がいます。ガンでこの世を去ってから何年も経つのですが、今でも信じられません。棺の中の灰色の顔を思い出すたびに悲しくなります。だから聖書の教えに触れるたびに、「復活したら、ガンに打ち勝った命で輝いているんだろうな。早く会いたいな、話したいな、一緒に笑いたいな」と待ち遠しくなります。
降臨節は待つ季節です。神さまが降って来られるのを待つ季節です。降臨には二つの意味があります。一つはもちろんクリスマスが祝う、神さまが人間イエスさまとして生まれた「受肉」です。もう一つは、世の終わりに再び主イエスさまがこの世に来られる「再臨」です。
「世の終わり」と聞くと恐ろしいことを連想します。地球環境の崩壊、核戦争、またはAIによる人間の支配・・・。宗教的にもミケランジェロの「最後の審判」のように、悪人と善人が左右に分けられて審かれて罰せられるイメージが湧いてきます。実際、降臨節に読まれる聖書箇所には、審き主としてのイエスさまがよく登場します。
しかし初期のクリスチャンにとって、世の終わりは何よりも待ち遠しいものでした。それは「自分は善人だから審かれない」と思い上がるからではなく、審きのあとに「命が来る」と確信していたからでした。
2世紀の主教エイレナイオスが教えるのには、神の知識は「なぜ神の御子の再臨が時の終末に起こるのか、なぜ始原たるものが最後に現れるのかを明言する」と言います。
(ルイ・ブイエ著「キリスト教神秘思想史1」148頁)
つまり世の終わりに来るのは、死の苦しみや罰ではなく、命そのものである神ご自身なのです。世の初めに「光あれ」と言った父なる神、万物に語りかける「言」としてのイエスさま、そして命の息吹なる聖霊が歴史の終わりに完全に現れます。そして罪もない人が苦しめられるのではなく、罪と死と悪自体が完全に打ち負かされ、私たちは復活の命、病むことも、老いることも、死ぬことも、朽ちることもない命に輝くのです。
また、神の知識はこの終末が「なぜ」起こるのかを知っています。それは神が「怒り狂って悪人を罰したいから」ではありません。終末が来るのは、神がその愛で私たちの歴史を初めから終わりまで貫きたいからです。そしてご自分の命でこの世界を満たしたいからです。神は歴史の初めに世界を創造してこれを愛し、命を満たし始められました。歴史の中心で、神は苦しむ私たち人間と一つになって受肉されました。そして歴史の終わりに神は再び世に来られ、復活の命で世界を輝かせられます。神は歴史を通して世界を愛しておられるのです。
信仰とは神の知識であり、それは歴史の知識です。自分たちは今、イエスさまの時と、終わりの時との間に生きている。そしてその間、信仰と希望と愛によって神を現し、目の前の一人の人に神の知識を伝える。そう意識して祈り働くのです。
世の終わりが来れば、愛するあの人もいずれは死ぬべき私も、再び現れる命そのものに輝いて再会できるのです。この降臨節、主のご降誕とともに、主の再臨を待ち望みましょう。クリスマスとイースターを一つの心で信じましょう。世の終わりを待ち望み、命を待ち望み、今日の小さな生活を愛しましょう。
司祭ヨハネ荒木太一
