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贅沢な静けさ

秋の静けさを感じます。

 

この季節、嬉しいことはエアコンをつけなくていいことです。(この文章は10月上旬に書いていますが)酷暑の間、ずっと動きっぱなしだったエアコンが止まると、そのあいだは意識をしていなかった静けさが帰ってきました。蝉の声ももう止みました。

 

私は静かな場所や時間の中にいると、幸せを感じます。贅沢を感じます。祈る心が深まり、神の存在を感じる気がします。ハイキングでふと立ち止まる瞬間もそうですし、朝と夜の静かな時間もそうです。

 

朝、元気に早起きできれば、贅沢な静けさを神さまが準備してくださっています。私の場合は礼拝堂へ行けば家族の生活音も聞こえません。(皆さんの家ではどこが、また、いつが一番静かなところでしょうか。それは公園のような屋外かもしれません)そして礼拝堂は冷房も暖房もつけなくても良い温度です。外は通りの車も歩行者もまだ少なく、宅急便も電話も来訪者もまだありません。そこで私は坐禅するか椅子に座って、瞑想します。なにも難しいことはありません。力を抜いて自分の呼吸に気づくだけです。

 

夜は食事とお風呂のあと、体力に余裕があれば、ベッドに入る前にしばらく瞑想する時間です。妻が部屋にいても大丈夫です。(ユーチューブが始まらなければ・・・) その日一日の活動を終えて、頭の中も、もう忙しく働く必要がありません。

 

もちろん完全な沈黙は日常生活にはありません。ある程度の静けさのなかで、呼吸を静めて、耳から入ってくる音はただ聞き流すのみにして、一つの音ともう一つの音のあいだに無限に広がる静けさに耳を澄ます、というような状態です。

 

そうしているうちに、ただ外部からの音が無い、というだけではなく、心の雑音が少なくなってきます。心が静まります。「あれをどうにかしなくてはいけない」「あんなことをしなければよかった」「あんなこと言わなければよかった」などとうるさく考える頭と心が静まってきます。その静けさのなかでは過去と未来の自分は遠くなっていきます。自分が少しずつありのままになっていきます。

 

そして「今、ここにいる」自分の存在が少しずつ深く、満ち足りてきます。すると自分と自分の存在の根源である神とを遮断していた音が静まります。そのようにして静けさのうちに神が自分に近くなってくださいます。または自分が、それまでも変わらず近くにいてくださっていた神に近くなっていく気がします。

 

「悟り」や「神秘体験」というようなすごいものではありません。誰にでもあり得る、少しだけの、少しずつ感じる「予感」程度のものです。

 

このように物理的、身体的、心理的に、神の臨在の前に静かになることもまた、一つの祈りです。沈黙の祈り。静けさの祈りです。

イエスさまも静けさの祈りを実践されました。「一晩中祈られた」とありますが(ルカ6・12)それは一晩中ぶつぶつ言っていた、というよりも、現代とは比べ物にならないほどの当時の夜の静けさの中で、その静けさのすぐ裏側におられる父の存在に聴き入っていた、ということでしょう。そのなかで父と交わっておられたのです。その静けさが、働き続ける活動の根源となったのです。

 

「そんなに余裕のある生活をしてない」と叱られるかもしれません。でも1日24時間の中のたったの5分で十分です。朝や夜に、静かな場所と時間を見つけて、神の静けさに耳を傾けてみませんか。そうすれば必ずその静けさの中から神が近づいてくださり、あなたの心に触れ、1日の活動を力づけ、または1日の疲れを癒してくださるはずです。

 

「わたしは静かに神を待つ、わたしの救いは神から来る」(詩編第62編1節)

 

司祭 ヨハネ荒木太一